2010年2月 9日 (火)

練習は、お休み

 火曜日が定期練習日の合唱団が練習お休み。練習会場がホールのステージという恵まれた合唱団だが、今夜はそのステージで倉本聰さん作の「谷は眠っていた」の公演がある。観劇に行かれる団員さんも多いため、お休みになった。
 実は、今日の「谷は眠っていた」は午後と夜の2公演。午後は中高生向けの芸術鑑賞として。夜は一般向けの有料講演。幸い、午後の公演を我が中学校の全校生徒とともに堪能した。
 このホールでは過去にも倉本先生の作品が上演されていて、私も4本目の倉本作品だった。これまで観てきた倉本作品は、社会の問題を正面から扱ったものが多かった。そういう視点は嫌いではないのだが、見終わった後で作者からお説教を食らったような感覚があった。そういうことが繰り返されていたから、今回の作品もある程度の覚悟をしていたのだが・・・。

 富良野塾の黎明期を中心にして描いた物語は、夢や希望を胸に富良野に集まってきた若者たちの「こんなはずじゃなかった日々」を連ねていく。役者や脚本家を目指して集まったのに、生活することをゼロからやり直していかなければならない。そんな若者たちの葛藤を描きつつ、彼らが自分でその意味をつかみ取っていく姿がストレートに表現される。
 役者や脚本家になることは、まず「人間として確かに生きていること」なのだという強いメッセージは、とても共感できる。私も音楽表現をしていく中で、同じようなことを感じることが多い。人間が生き物として生きている実感を得ていないと、音楽でも芝居でも、本物の表現は出てこないということ。その通りなのだ。
 練習は、お休みだった。しかし、少し感覚が鈍くなりかけていた私自身の中で、目が開かれるような感覚があった。良い作品だった。

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2010年2月 8日 (月)

3度目の「風紋」

 T町の合唱団で昨年末から取り組み始めたのが、混声合唱組曲「風紋」。石井歓先生の古典的名曲である。無伴奏組曲なので気軽に取り組めるものではないが、私自身が昔から大好きなこともあって、私にとって3度目の「風紋」となる。
 昨年末から譜読みに入り、第3章は何とか最後まで通るようになった。そこで、2月からは第1章の譜読みへと進んでいる。第3章「おやすみ砂丘」を気に入っていただいたようなので、いよいよ本丸攻めに入ったとでも言うべきか。なにしろ、初めて演奏録音を聞いていただいたときは、メンバー全員が「無理」という顔をなさった。それを「なんとかできそう」と思っていただき、さらには「この曲、おもしろそう」とならなければ、練習のモチベーションは上昇してこない。

 定刻に練習会場に到着すると、自主的に体操を終えられている。早速、横隔膜を動かす発声から入り、無伴奏曲に取り組むことも意識して「ンゴンゴ発声」で響きを意識していただく。今夜は寒さも一段落だったせいか、声の状態がいつもに増して良好。先週取り組んだ第1章の冒頭部分のおさらいをして、新たな部分へと入っていった。
 冒頭のスローテンポの部分を、無伴奏のまま何とか歌えるようにしたいと思っていたので、終わりの30分ほどを使って声だけで合わせていった。やはり転調部分の音程が不安定になる。曲そのものに慣れていないことが原因。あせらずにいくしかない。なにせ、この合唱団が「風紋」に取り組めるようになったこと自体が奇跡的なことなのだから。もう一度、音楽や合唱の基本に戻って確かめる練習を組み込んでいく必要がありそうだ。平均年齢は還暦をこえている。定着に時間がかかるのは当然だ。私自身がそのことを忘れかけてしまう。気をつけなければ。

 方法を誤らなければ、ほとんどの合唱団は上手になっていくのだと思う。この合唱団が何よりの証明。それができるかでいないかを握るのは、指揮者自身。目の前の合唱団が私自身の指揮者としての力を私に思い知らせるのだ。練習に向かうための準備の大切さを改めて思う。

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音楽的集中

 いつものように私の生伴奏でラジオ体操。その後、ペアになっていただくと「今日は何をするの?」という眼差しがこちらに向けられる。それもそのはず、A合唱団では合唱劇の上演に向けて、様々なワークショップ(WS)形式の練習を取り入れている。それが音楽WSの場合もあるし、演劇WSの場合もある。その楽しさがわかっているメンバーは、実は「待ってました」の時間でもある。
 腕の力を抜いて指先をつかんでもらい、相手に震わせてもらう。力が抜けていると実に気持ちがいい。お互いの両手を終えると、床に寝そべって両足首をつかんでもらい、全身をグネグネと振ってもらう。あちこちから「気持ちいいー」という声が聞こえる。そう、私たちはこんなにこわばった体で日常を送っている。そのことにも気づいてほしい。最後にはお互いに背中合わせになり、相手の背中を自分の背中でマッサージ。そろそろ体がポカポカしてくる頃。自席に戻っていただいて、ようやく発声練習となる。発声まで終える頃には30分ほど経過している。しかし、練習会場に漂う空気に無用な緊張感がなく、リラックスした雰囲気になっている。

 最近、こうしたアプローチの重要性を強く感じている。人と人とがアンサンブルしていくためには、相手を受容できる心の状態が不可欠であり、そのためには共通のアクティビティを通した遊び的な体験が効果的なのだ。毎週繰り返される「ペアの活動」によって、メンバーの親近感が非常に高まっているのを感じる。その親近感がそのまま「パートの響きをまとめよう」という方向へ生かされていく。繰り返し歌うメンバーに、ほんの少しのヒントを投げかけるだけで、音楽的な集中が高まっていく。もちろんそこで生み出される音楽は「現時点での最高」なのだ。
 練習の中で音楽的集中を得ることは、緊張感を伴った集中ではないかと思ってきたのだが、ここ数年は全く異なる考え方に変化してきている。よい集中を生むのはリラックスや心身の解放なのだという確信が強まっている。自分自身の指揮のあり方も、少々方向転換が必要だと思い始めている。

 今日は林光先生作曲の合唱劇「鼠たちの伝説」から数曲を練習。復習をかねて2回ずつ歌った前半の曲は、いずれも2回目の方が格段に良くなっていた。私から何も言わずに2回目が良くなるのは、とても良いあり方だと思う。合唱団が「よくなりたい」と思い続けてくださっているのだ。嬉しい。後半は最近加わったメンバーのために、以前練習しておいた2曲を練習。
 練習会場を後にするメンバーの表情が良かった。どうやら今日の練習はOK。私もさわやかな気持ちになって会場を後にした。

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2010年2月 3日 (水)

いつか見た風景

 テレビのスイッチを入れる。帰宅する時間帯も災いしてか,毎日毎日同じニュースが流れている。献金だの土地購入だの辞任だの。それも,記者が自ら情報の精度を確認したものではなく,関係筋や元○○という匿名の「誰かさん」の言葉「とされている」言葉が流れる。そこに客観的な正確さは認められない。
 この国において犯罪者扱いしても人権侵害にならないのは,唯一裁判において有罪判決を受けた被告人だけのはず。それが,「あやしい」というだけで犯罪者扱いされてしまう。小さな,不確かな情報を集めてきて「ほら,こんなにあやしいんだよ。」と言う。そして,事もあろうに「だから,きっとこんなこともしたに違いない! これは犯罪だ!」と毎日たれ流す。その同じ口で冤罪事件の不条理を語る。
 相当に強固な意志や信条を持ち合わせていなければ,いとも簡単に思考停止に陥ってしまう。あるいは,そんなことをも目的にして報道が行われているのか?と疑いたくもなる。

 こんな風景を,これまでもたくさんたくさん見聞きしてきたし,体験もしてきた。それなのに人間というものは,なぜ自分で確かめることをしないのだろう。なぜ,自分の理性と感性によって評価することをやめるのだろう。この風景が数十年前に大きな歴史的過ちへと突き進んでいった時と,同じ風景であることに気づかなければならないのに。

 不確かな,断片的な情報しか得られていないことについて,人は簡単に物語を描いてしまう。しかもそれは,真実という物語ではなく,思い込みという物語であることがほとんどだ。大勢の人間が同じように思い込んだとき,我々人間の脳はそれを真実と誤認したままに突き進んでしまう。だから,一つ一つの情報の確かさを,自分の責任において調べ上げなければ,意見を述べてはならないのだ。まして,他人の生活や命を左右するような事柄に対しては,「疑わしきは被告人の利益」を徹底しなければならない。被告として法廷に立つ以前の被疑者の段階ではなおさらである。

 政治家とお金の問題や,特定の政治家の疑惑を完全否定するわけではない。特定の政党に組みするわけでもない。が,「疑わしい」がどれほど多くの冤罪を生んできたのか。私たちは,もう少し理性を用いて情報を取捨選択していかなければならないようだ。

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2010年1月 9日 (土)

再開

 2010年がスタートして,今年の音楽活動もいよいよ再開。とは言っても,スタートを飾ったのは新年会ではあったが…。

 昨年は私の周囲で様々な事件,事故があった。中でもS合唱団団長さん,さらに大学時代の合唱団の先輩で,現在の職場でもすばらしい上司として3年間をご一緒させていただいたH氏が,いずれも急逝されたことは少なからず心の傷となった。また,妻の大けがは家族を揺るがす出来事であった。

 大きな変化は別れや事故だけではなく,新たな出会いや展開をもたらすものでもある。いくつかの新しい風,新しい流れが自分の近くで起き始めていることを感じている。

 2010年がスタートした。様々な再開がなされるが,実は再開ではなく,新たな出発なのかもしれない。

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